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4月, 2018の投稿を表示しています

正しすぎる人の話。

未だに元彼を引きずっている。 別れてちょうど一年になる。 私にも新しい恋人ができたし、彼にも新しい恋人ができた。 彼も幸せそうにしているし、私も今を幸せだと感じている。 なのに、過去の記憶を掘り起こしては後悔に落ち込み。 知る必要のないことをわざわざ覗き見ては落ち込む。 自分が何をしたいのか分からず、何のために無駄でしかない気分の浮き沈みを繰り返しているのか分からず。 自分を制御するためにも、一度ちゃんと思考を整理して、理詰めで自分を落ち着かせる努力をしようと思った。 元彼は私の対極にいる人だと今も思う。 はっきり意見を言うこと。 人当たり良く、誰とでも楽しく話すこと。 広く学習意欲、向上心を持つこと。 挙げだせばきりがない程に、私の苦手なことをちゃんとやれる人だ。 自炊が苦手な私に、ちょっとしたことで料理がラクになったり、美味しくなったりすることを教えてくれたのも彼だった。 もともと私も好きだったお酒の楽しみ方を、何倍にも広げてくれたのも彼だった。 そんな彼が自分のことを好きになってくれて、私も彼を好きになって。 付き合ってみたものの。 今思えば、私が完全に子供でわがままで、彼はどこまでも大人だった。 「僕は君のことを前の彼氏よりも幸せにしなければいけない」 という彼の言葉を真に受けて、ことある毎に前の彼氏と比べてしまった。 他にももっと、今思えばもう思い出すのも嫌になる程に自分の未熟さを恥じることだらけの日々だった。 付き合っていた当時から、彼の正しさに圧倒されている部分はあった。 彼が私の選んだものなんかで喜んでくれるのか不安で、旅行のお土産ひとつ買うのに、これでもかというくらい時間がかかった。 自分の“美味しい”という感覚に自信をなくして、彼と食べると思うとお惣菜やちょっとしたおつまみさえ気軽に買えなくなった。 自分の趣味を恥じて、趣味に使う時間がなくなった。 デートに行きたい場所も気軽には言えなかった。 彼は全て正しくて、自分は全て間違っているような感覚に囚われていた気がする。 その分、感情面だけは自分が正しいと信じ切っていて、彼はどうして分かってくれないのか、彼はどうして私と同じように考えてくれないのか、と一方的な期待ばかり押し付けてし

10000日目を祝う話。

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今からちょうど8年前の今日つぶやかれた、こんなツイート。 https://twitter.com/kosukez/status/12881501293?s=19 学生時代に見かけ、今までずっと記憶に残っていた。 27歳と4ヶ月と少し経った頃、10000日の誕生日がやって来る。 生きてきた日数の桁の増える最後の日。 とても特別に思える、そんな日。 このツイートを見かけた時には、27歳なんて自分にとっては遥か先の未来だと思っていたのに。 気づけばもうすぐ生まれてから10000日が経とうとしている私。 そんな私に、姉がお祝いにピンキーリングをプレゼントしてくれた。 ラブラドライトという石。 「自由の象徴」とされることもあるらしい。 同じデザインでオーソドックスにダイヤモンドのものもあったのだけれど。 せっかくの記念だから、なんとなく印象に残るものにしたいという気持ちで、こちらを選ばせてもらった。 なんとなく自分を縛って、窮屈に生きてきたように感じる10000日だったから。 次の10000日はもっとのびのびと羽を広げて生きられれば良いな、と。 そんなことを思う。 ちなみに、三年前には姉の10000日誕生日のお祝いもした。 ブレスレットを贈った記憶。 自分が祝われるのも嬉しいけれど、自分の大切な人の特別な一日を自分が祝うことができることもまた、とても喜ばしいことだと思う。 意識しなければ何でもなく過ぎていく一日を、自分にとって、自分の大切な人にとって、記憶に残る一日にすることができる。 私はそういう感覚が好きだ。

社内のカウンセリングで号泣してしまった話。

弊社には入社○年目全員対象、というような定期的なカウンセリング面談がある。 カウンセラーさんに一時間近く、しっかり話を聴いてもらう。 今日は午前中、その面談の日で。 軽い気持ちでカウンセリング室へ向かったのだけれど。 「最近仕事どうですか」 という問いかけに対して、口を開いた瞬間に涙が溢れだして、止められなくなってしまい、カウンセラーさんとお話しながら、ひたすらに泣き続けた時間だった。 自分でも何がつらいのか分からず苦しんでいた今日この頃だったけれど。 「こういう気持ちが強くてつらくなっているのかな?」 「こう考えてみてはどうかな?」 と自分の気持ちや状況について、客観的に整理してもらって。 短い時間のコミュニケーションだから、正直、そうではないのだけれど、と思ってしまうこともありつつ。 でも、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。 大学院生の頃にも一年近くカウンセリングを受けていたけれど。 一言で言うと、カウンセリングはすごい。 本当に合うカウンセラーさんとお話ししていると、自然と会話をしているように感じるのに、それがちゃんと理論に基づいている。 『心理カウンセラーとは』(日本カウンセラー学院) https://www.therapy.jp/counselor/ 先生の個人的なアドバイスという訳ではなく、理論に基づくとこういう考え方もできる、というようなものなので、その後の生活で様々な場面でその時習得した考え方を活かせるというのもメリットではないかと思う。 心の理論について、一度基本から学んでみたいな、と思ったりもする。 私は自分の状況や感情を人に伝えることに大きく抵抗はないから、恐らくカウンセリングに向いているタイプの人間だと思う。 カウンセリングへ通い始めるにあたり、話すこと自体がストレスになるようであればカウンセリングは向いていないかもしれないと、当時お世話になっていた精神科の先生が仰っていた。 人による向き不向きはあれ、日本人にとってカウンセリングがもっと気軽に身近であれば良いのに、と思う。 そんな昼休み。 カウンセリング後、メイクも崩れ、目も腫れてしまって、昼休みまでの20分程仕事に戻れずサボってしまった。 お化粧を直して、午後はちゃんと仕事をし

戦隊ヒーローに夢中になりつつある27歳メーカー女子の話。

ルパンレンジャー VS パトレンジャー。 毎週日曜日 9:30から放送している戦隊ヒーロー。 幼い頃ですら、セーラームーン、おジャ魔女どれみに夢中な子供で、仮面ライダーにも戦隊ヒーローにも微塵も興味を持っていなかったのに。 毎週日曜日の朝を楽しみに、励みに、平日を生きている自分に気付いてしまった。 きっかけは元モーニング娘。の工藤遥ちゃん。 私の一番好きな女の子。 『君さえ居れば何も要らない』のMV(close-up ver.)のイントロで魅了され、昨年12月のモーニング娘。'17からの卒業を武道館で泣きながら見守った。 その工藤遥ちゃんの女優としてのデビュー作がこの『ルパンレンジャー VS パトレンジャー』。 大好きな女の子が、ルパンイエローを演じている訳で。 ファンとしては彼女をお目当てに毎週欠かさず観るに決まっていて。 最初は彼女の活き活きと演技をする姿を見られさえすれば、ストーリーも怪物との戦いも正直興味は湧かなかった。 それが、回を重ねるにつれて、ルパンレンジャーの願いは果たされるのか…、パトレンジャーに正体がバレてしまうのではないか…、と話の展開をハラハラと見守り、次回を純粋に楽しみにしている自分に気付いてしまった。 ルパンレンジャーの変身時のダイヤル操作が語呂合わせであること(例えば、イエロー ⇒ 116)に気付き、ちょっと嬉しい自分がいたり。 本来の視聴ターゲットであるちびっ子達は、果たしてこの物語の奥深さをどこまで理解して楽しんでいるのだろうと疑問に思ったり。 他の俳優さんのインスタをフォローしてみたり。 とにかく、夢中なのである。 27歳にして、新たな世界を知り。 その世界を趣味とする方々の存在を知り。 その対象は何であれ、自分の中にはまだ、新しいものに興味を持てる、好きになれるエネルギーが存在していたのだということがなんだか嬉しくて。 最近のそういう自分が好きだったりする。 まあ、でも。 工藤遥ちゃん演じる、ルパンイエローがフィーチャーされた回を録画で繰り返し数回見直してしまう程度には、やっぱり彼女のことが大好き。

職場の飲み会を一次会で抜けた後の時間の話。

普段、職場の飲み会に参加すると、ついつい誘われるがままに二次会、三次会へと流れて行きがちなのだけれど。 今日は体調と心の調子が万全でなく。 色んな方からの誘いの言葉を振り切り、一次会で逃げ帰ってきた。 帰り道、いつもの飲み会帰りには閉店してしまっているスーパーに立ち寄り、明日の夕食の買い物をし。 もしかして、と本屋さんに立ち寄ると、こちらもまだ営業中で。 先週友人に薦められ気になっていた小説と、好きな作家さんの小説、直感で選んだ初めて読む作家さんの小説の三冊を購入し。 とても気分良く夜道を歩いて帰宅した。 なんて素敵な夜なの、と。 遅くまで飲み歩く夜も良いけれど、ほろ酔いで自分の時間を一人楽しむ夜もたまには良い。 一歩大人に近づいた気分の夜。 二十七の春。

茶道と華道の世界を覗いた話。

華道のお稽古に通い始めてもうすぐ3年になる。 もともと大学時代には茶道をやっていた私。 お点前を覚えたり、着物を着られるようになったり、お茶会を開きおもてなしという気持ちを覚えたり。 所作が綺麗だ、お茶を点てるのが上手だと褒められることも嬉しくて。 お茶会のお運び(お菓子や水屋で点てたお茶をお客さまへお出しする役割)の責任者をやって、笑顔で直接お客さまをもてなすことも自分に向いていて楽しかった。 そうやって茶道を楽しんだ6年間を経て社会人になり、全く違うことを始めてみようという気持ちになった。 そこで始めたのが華道。 茶道と華道。 全く違うこと?と疑問に思われるかもしれない。 私自身も最初は、茶道の楽しみ方はある程度知ったし次は近からず遠からず、という気持ちで始めたのだけれど。 やってみると、全く違う道であることを知る。 初めて華道の体験に行った時、先生からかけられた言葉。 「ここでは仕事のことも全部忘れて自分の気持ちを開放して良いのよ」 ああ、なんて素敵な場所なのだろう、と思った。 ただただ目の前のお花とだけ向き合って集中する時間は、実際日常で積み重ねたもやもやした気持ちを忘れさせてくれる。 そして、生け終えた花を先生に手直ししていただきながら、こんな言葉をかけられる。 「今日はあなた、気持ちがきゅうと縮まっている気がするわね」 「今日は良いことがあったかしら。素直に朗らかに入ってるわ」 無意識に自分の気持ちを花で表現しているようで。 まるで箱庭療法のよう。 決まった型のようなものはあるけれど、その基本を身につけた後、結局のところ、華道は花の美しさや自分自身を表現するアートなのだと。 そんな当たり前かもしれないことを、始めてしばらくの後に実感した。 たった6年かじっただけで言うのもおこがましいけれど。 実感として。 茶道はおもてなしの文化そのものだと。 お客さまに楽しんでいただくために、お道具やお菓子、お茶、空間そのものを創り上げる。 そして、まだ3年足らずでこんなことを言うのは更におこがましいけれど。 華道はアートだと。 花をいかに美しく活かすか、魅せるか。 茶道と華道。 今は華道をもっと深く知りたいと思う。 展示会

女人禁制について思い出した幼い頃の話。

最近話題の“女人禁制”の話。 相撲の歴史や文化について詳しい訳でもないので、何か述べる権利が私にあるのかと言えば、まぁないでしょう、という答えに行き着く。 だから、何か意見したい訳ではなく、なんとなく考えを巡らせていたことを整理したくなった、それだけ。 私の地元には、町毎のチームで御神輿を担いで水を浴びながら街を走り、タイムを競うという夏のお祭りがある。 小学校高学年以上の男性が参加するそのお祭りは、全速力で走る御神輿に巻き込まれ怪我をする人もいるような激しいもので、その危険性からなのか伝統的に女性には参加資格がない。 子ども向けには、脚にローラーの付いた小さな御神輿を牽いて「わっしょい わっしょい」と大人の真似事のように街を練り歩くお祭りも存在していて。 そこでは男女に区別はなく、私もそのお祭りが大好きで、毎年楽しく参加していた。 幼い頃の記憶としてかなり濃く残っている。 そういえば、と今回の話題について考えるにあたり思い出したのだけれど。 私が小学校低学年くらいまでは御神輿に上れるのは男の子だけという決まりがあった。 それもいつからか、伝統を重んじるお年寄りの声の小さい地区からなくなっていき、私が高学年になった頃には女の子も御神輿の上に凛々しく立つようになっていた。 そういう時代の過渡期だったのかな、と思う。 まぁ、そんなこんなで大好きだったお祭りも、小学校の卒業に伴い、自分が女性だから、という理由で参加資格を失うことになる。 子どもながらに感じた少しの不公平感について、女人禁制に何の意味があるのかと父親に疑問をぶつけた。 その時父親が聞かせてくれた話を今でも覚えている。 例えば、女性の神様がいると信じられている山なんかには、女人禁制とされている場所もある。 女神様が女性が近付くことを嫌がるのだと。 そんな山の鉱山やトンネル工事で命を懸けて働いている男性たちにとって、女人禁制という古くからの言い伝えを信じ験を担ぐことは、外野から想像もできないほど重要な意味を持つことなのかもしれない。 そこに、頂上からの綺麗な景色がみたいから、という理由で男女平等を謳って女性が入っていくとすると、それをどう思うか、と。 そんな話を聞かされた記憶。 それが父親の例え話だったのか、実

即効性のあるストレス解消法の話。

心にもやもやが積もり続けていて。 やってられないな、とやさぐれてしまうようなこともあり。 昨日は一人で二時間、カラオケで大きな声を出してきた。 もやもやした気持ちを吹き飛ばす手段として、即効性という点でヒトカラを超えるものを私は知らない。 楽しく声を張れる好きな曲を切れ間なく歌っていると。 あれこれうじうじ気にしていた自分が馬鹿みたいに思えてくる。 こういう気持ちの切り替え方を自分でちゃんと知っている私は、まだ大丈夫、まだ強くいられる、と思う。 そう、大丈夫。

心が疲れた私を励ます話。

なんだか、疲れたのです。 仕事のプレッシャーもあり。 ずっと続いている気持ちの面の無理もあり。 朝から布団の中でひたすら映画を観るなどしている。 それもそれで疲れがとれる訳でもなく。 だらだらと日曜日が終わりへ近づいていく。 気を取り直して。 何をしようかと。 何をすれば元気になれるのかと。 少し前向きに考え始めた。 意味もなくおしゃれをして、一番ヒールの高い靴を履いて出かけてみようか。 学生の頃好きだった大戸屋のチキンかあさん煮でも久しぶりに食べてみようか。 そうやって、背伸びしてしゃがみ込んで、自分の身体や心の大きさを確認してみようか。 文章にして自分を励ます言葉を紡ぐと、自然と元気が出てくるもので。 不思議だけれど、言霊とかそういうもの、どこかで信じて生きている自分がいる。

画になる小説の話。

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ふと目が覚めると早朝5時過ぎで。 ついさっきまでみていた、どたばたと慌ただしい夢について思い出していると。 なんだか急に、頭の中に何かのドラマの少し怖いシーンが浮かんで消えなくなった。 怖くて二度寝できそうにない。 何のドラマだったかとしばらく思考を巡らせていた。 俳優さんの顔も思い出せない。 なのに、小さな女の子の赤いランドセルだとか、そういう細かな画や画面全体の構図なんかが鮮やかに浮かぶ。 そこで、はたと気づいた。 ドラマではない。 小説だ、と。 伊坂幸太郎さんの『死神の浮力』。 これだ。 ちょうど一年程前に読んだだろうか。 こんなに明確に映像として記憶されていることに驚いた。 伊坂さんの文章は描写がくどいような印象は全くなく。 むしろすっきりしているイメージなのに。 これだけ綺麗に読者の(少なくとも私の)頭の中に場面を描ける、ものすごい力を持った文章なのだと。 初めて気づいた。 そんな明け方の不思議な体験。 

気の置けない友人たちとの女子会の話。

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大学時代の友人たちと未だに定期的に集まる女子会がある。 学生の頃には、チェーンの喫茶店で飲み物だか食べ物だか判断のつかない高カロリーの美味しいドリンクを飲んで(食べて?)ひたすら話す会だったのだけれど。 社会人になり、少しおしゃれなハイレベルな女子会をするようにもなった。 品川のプリンスホテル新高輪、ラウンジMomijiでのハイティー。 スパークリングと白、赤のワイン飲み放題。 白ワインは美味しかったな。 女子会の場の雰囲気は変わっても、自分たち自身はなかなか大きくは変化しないもので。 落ち着く空気感、みたいなものは何年経っても変わらず、とても安心する。 こういう場をいつまでも大切にしたいと思う。 全員が漏れなく幸せになれ、と心底願う。 そんな会。 私も幸せにならなくては。

長く綴りたくなった話。

少し長めに文章を綴りたくなった。 一年と少しの間。 Twitter というツールに自分の感情、思考、生活をアウトプットし続けたけれど。 久しぶりに140字を超える文章を書こうかな、と思い立ったところ。 子供の頃から文章を書くことが好きで。 小学生の頃にはお気に入りのノートに毎日日記をつけていたし。 中学生の頃、ちょっとした小説を書いてちょっとした賞に入選したこともあった。 読書感想文を書くのも好きだったし。 高校生の頃からは、場所を少しずつ替えながら大学院を修了するまでブログを書き続けた。 就職活動中、 エントリーシート で自分を表現することも全く苦にならなかったし。 俳句や短歌で賞金稼ぎみたいなことをしていた時期もあり。 文章の長さ、ジャンルを問わず、私はとにかく綴ることが好きな人間なのだ、と自覚している。 そんな私が最近楽しんでいた Twitter 。 自分の感情や思考を140字の中にぎゅっと要約して綴るツールとして使っていた。 ブログとは違う頭の働かせ方をしていた感覚がある。 「こういう構文だと冗長になってしまうから、こう組み立て直そう」 「余計な描写はなくして簡潔に書こう」 そういう考え方への慣れは、結果的に仕事にも良い影響を及ぼしてくれた気がしていて。 文書をA4 1ページにまとめたい時なんかに、文章の無駄を削る、端的に表現するといったことが少し上手くなったように思う。 そうやって楽しんでいた Twitter を少しだけ離れてみようかな、と思っている今。 だらだらと長い文章を書く時間が懐かしくなったということもあるけれど。 なんだか怖くなった、という表現がたぶん正しい。 日常生活で何かを考える時、ついツイートすることを意識して、文章を組み立てながら思考を巡らせている自分に気づき。 そんな自分が怖くなった。 特に人からの反応を意識してツイートしているつもりはなかったのだけれど。 なんだかんだ、たくさんのいいねをもらえると嬉しいもので。 少なからず、それを期待して文章を綴っている自分に気づいた。 そういうこと。 他にも理由は色々あるのだけれど、別にここで全てを語る必要はない訳で。 とにかく、 Twitter はちょっとお休み。 しばら