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「考える」ということについて考えた話。

年末、任された仕事に全力で取り組み、考えに考え、私は少々燃え尽きてしまったようである。 顧客のニーズについて考え、上司の期待する成果について考え、先輩の一歩先回りをして行動することを考え、自分の業務の進めたい方向性について考え、そして何より、向き合う対象の物理的な特性について考え、頭と手足を全力で動かした。 その結果、得られた成果の大きさはともあれ一区切りつけられた業務もあり、ひと息吐いたところで11日間のお正月休みを経て、新たな年を迎えた。 長期休暇明けなんて、毎度なんとなく本調子は出ないものではあるけれど。 お正月呆けなんて言葉も言い訳にできなくなる一月の半ばに差し掛かっても、何となく頭の働きが鈍っているような気がする。 熟考すべき業務を目の前にしつつ、すぐに片付く短期的な業務ばかりについ手を出してしまう。 “深く考える力”が欠如してしまっているようだ。 “頭の良さ”というものは“深く考える能力”なのではないかと思うことがある。 大学、大学院に在学していた六年間、そんなことをひしひしと感じていた。 限りなく賢い人たちの集まる学内で、明らかに自分に欠如していたものは“考える力”だったように思う。 「なんとなく分からない」「なんとなく分かった気がする」をそのままにしておかない。 誰かのぼんやりした主観的な発言に「それってなんかおかしくない?」と躊躇わずに伝え、何がどうおかしく感じたのか、“ぼんやり”の中身を明確化する。 何か引っかかる物事に直面した時に、「ちょっと待って、考えるから」と立ち止まる。 大学生活はそんな“よく考える”人たちに数多く出会う環境だったと、社会に出て数年経った今、改めて思う。 そして自分自身も、そんな大学生活の中で少なからず変化した部分はあると思っている。 入学当初の私は、周囲に対して「すごいなぁ」だとか「とんでもないところへ来てしまった」だとかそんな心持ちで、自分がその中に属しているという感覚を持てずにいた。 大学院を修了するまでの六年もの間、結局のところ、そんな感覚も落ちこぼれ意識も拭い去ることはできず、自己否定感と闘い続けた大学生活ではあった。 そんな中でも、「あの時ああ言われて思わず納得した気持ちになったけれど、よくよく考えると何だか違うような気がする」などと