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「東大女子が入れない東大インカレサークルに在籍する男子」について考えた話。

今日、出張先への飛行機の中でスマホを眺めていたところ、こんなツイートを見かけた。 私が東大に通っていた頃、東大女性が入れないサークルが結構あって、その時は落ち込んだりもしたけれど、今なら言える、そんなところにいる男性に、いい男いない。女性が勉強できることや学歴高いことは、なにも恥ずかしがることはないし、胸を張っていて欲しいと、今日久しぶりに大学生と話して思った — しょうのまい | 獣医師・イベント運営 (@MaiShono) September 24, 2019 確かに、10年前私が大学に入学した頃にも、4年前修士課程を修了した頃にも、そういったサークルは存在していて、きっと現在も存在し続けているのだろう。 私が学生だった頃にも、そういうサークルの存在になんとなく疎外感を感じたり、好きな人がそういったサークルで出会った女性と付き合い始めた時には「私は彼と同じサークルには入れないのに…」と悲しい気持ちになったりした記憶もあり、少なからずネガティブな印象を持っていたと思う。 むしろ、決してポジティブな印象は持っていなかったと言った方が正しいかもしれない。 ただ、そういうサークルに在籍する男子が皆、女性に「勉強ができないこと」を求めているという認識は少し違うのではないかと思う。 少なくとも私は在学中、自分より勉強のできない女性を好んで求めたり、自分より学歴が低いから他大学の女性と付き合っている、という東大男子に出会ったことがない。 東大女子禁制のサークルに在籍している男子も、特に学歴で女性を区別するようなこともなく、ただ極端に女子の少ない東大学内では競争率が高すぎるので、女性との出会いを求めて…というパターンや、学内のテニスサークルに入れず(確か、テニスの実力や盛り上げ能力の高さみたいなもので入部可否を決めるセレクションというものがあったような…?)結果的にというパターン、単純に知り合いの先輩がいるからみたいなパターンの人が多かったように思う。 そもそも「東大女子が入れないインカレサークル」というものが存在している点や、東大男子は学内テニスサークルに入るのが難しいという点、といった根の深そうな問題があることは承知の上で、このブログの論点はそこではないことをご理解いただきたいと思う。 話を戻すと。 私の経験のみを根拠にかなり...

正しすぎる人の話。

未だに元彼を引きずっている。 別れてちょうど一年になる。 私にも新しい恋人ができたし、彼にも新しい恋人ができた。 彼も幸せそうにしているし、私も今を幸せだと感じている。 なのに、過去の記憶を掘り起こしては後悔に落ち込み。 知る必要のないことをわざわざ覗き見ては落ち込む。 自分が何をしたいのか分からず、何のために無駄でしかない気分の浮き沈みを繰り返しているのか分からず。 自分を制御するためにも、一度ちゃんと思考を整理して、理詰めで自分を落ち着かせる努力をしようと思った。 元彼は私の対極にいる人だと今も思う。 はっきり意見を言うこと。 人当たり良く、誰とでも楽しく話すこと。 広く学習意欲、向上心を持つこと。 挙げだせばきりがない程に、私の苦手なことをちゃんとやれる人だ。 自炊が苦手な私に、ちょっとしたことで料理がラクになったり、美味しくなったりすることを教えてくれたのも彼だった。 もともと私も好きだったお酒の楽しみ方を、何倍にも広げてくれたのも彼だった。 そんな彼が自分のことを好きになってくれて、私も彼を好きになって。 付き合ってみたものの。 今思えば、私が完全に子供でわがままで、彼はどこまでも大人だった。 「僕は君のことを前の彼氏よりも幸せにしなければいけない」 という彼の言葉を真に受けて、ことある毎に前の彼氏と比べてしまった。 他にももっと、今思えばもう思い出すのも嫌になる程に自分の未熟さを恥じることだらけの日々だった。 付き合っていた当時から、彼の正しさに圧倒されている部分はあった。 彼が私の選んだものなんかで喜んでくれるのか不安で、旅行のお土産ひとつ買うのに、これでもかというくらい時間がかかった。 自分の“美味しい”という感覚に自信をなくして、彼と食べると思うとお惣菜やちょっとしたおつまみさえ気軽に買えなくなった。 自分の趣味を恥じて、趣味に使う時間がなくなった。 デートに行きたい場所も気軽には言えなかった。 彼は全て正しくて、自分は全て間違っているような感覚に囚われていた気がする。 その分、感情面だけは自分が正しいと信じ切っていて、彼はどうして分かってくれないのか、彼はどうして私と同じように考えてくれないのか、と一方的な期待ばかり押し付けてし...

社内のカウンセリングで号泣してしまった話。

弊社には入社○年目全員対象、というような定期的なカウンセリング面談がある。 カウンセラーさんに一時間近く、しっかり話を聴いてもらう。 今日は午前中、その面談の日で。 軽い気持ちでカウンセリング室へ向かったのだけれど。 「最近仕事どうですか」 という問いかけに対して、口を開いた瞬間に涙が溢れだして、止められなくなってしまい、カウンセラーさんとお話しながら、ひたすらに泣き続けた時間だった。 自分でも何がつらいのか分からず苦しんでいた今日この頃だったけれど。 「こういう気持ちが強くてつらくなっているのかな?」 「こう考えてみてはどうかな?」 と自分の気持ちや状況について、客観的に整理してもらって。 短い時間のコミュニケーションだから、正直、そうではないのだけれど、と思ってしまうこともありつつ。 でも、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。 大学院生の頃にも一年近くカウンセリングを受けていたけれど。 一言で言うと、カウンセリングはすごい。 本当に合うカウンセラーさんとお話ししていると、自然と会話をしているように感じるのに、それがちゃんと理論に基づいている。 『心理カウンセラーとは』(日本カウンセラー学院) https://www.therapy.jp/counselor/ 先生の個人的なアドバイスという訳ではなく、理論に基づくとこういう考え方もできる、というようなものなので、その後の生活で様々な場面でその時習得した考え方を活かせるというのもメリットではないかと思う。 心の理論について、一度基本から学んでみたいな、と思ったりもする。 私は自分の状況や感情を人に伝えることに大きく抵抗はないから、恐らくカウンセリングに向いているタイプの人間だと思う。 カウンセリングへ通い始めるにあたり、話すこと自体がストレスになるようであればカウンセリングは向いていないかもしれないと、当時お世話になっていた精神科の先生が仰っていた。 人による向き不向きはあれ、日本人にとってカウンセリングがもっと気軽に身近であれば良いのに、と思う。 そんな昼休み。 カウンセリング後、メイクも崩れ、目も腫れてしまって、昼休みまでの20分程仕事に戻れずサボってしまった。 お化粧を直して、午後はちゃんと仕事をし...

茶道と華道の世界を覗いた話。

華道のお稽古に通い始めてもうすぐ3年になる。 もともと大学時代には茶道をやっていた私。 お点前を覚えたり、着物を着られるようになったり、お茶会を開きおもてなしという気持ちを覚えたり。 所作が綺麗だ、お茶を点てるのが上手だと褒められることも嬉しくて。 お茶会のお運び(お菓子や水屋で点てたお茶をお客さまへお出しする役割)の責任者をやって、笑顔で直接お客さまをもてなすことも自分に向いていて楽しかった。 そうやって茶道を楽しんだ6年間を経て社会人になり、全く違うことを始めてみようという気持ちになった。 そこで始めたのが華道。 茶道と華道。 全く違うこと?と疑問に思われるかもしれない。 私自身も最初は、茶道の楽しみ方はある程度知ったし次は近からず遠からず、という気持ちで始めたのだけれど。 やってみると、全く違う道であることを知る。 初めて華道の体験に行った時、先生からかけられた言葉。 「ここでは仕事のことも全部忘れて自分の気持ちを開放して良いのよ」 ああ、なんて素敵な場所なのだろう、と思った。 ただただ目の前のお花とだけ向き合って集中する時間は、実際日常で積み重ねたもやもやした気持ちを忘れさせてくれる。 そして、生け終えた花を先生に手直ししていただきながら、こんな言葉をかけられる。 「今日はあなた、気持ちがきゅうと縮まっている気がするわね」 「今日は良いことがあったかしら。素直に朗らかに入ってるわ」 無意識に自分の気持ちを花で表現しているようで。 まるで箱庭療法のよう。 決まった型のようなものはあるけれど、その基本を身につけた後、結局のところ、華道は花の美しさや自分自身を表現するアートなのだと。 そんな当たり前かもしれないことを、始めてしばらくの後に実感した。 たった6年かじっただけで言うのもおこがましいけれど。 実感として。 茶道はおもてなしの文化そのものだと。 お客さまに楽しんでいただくために、お道具やお菓子、お茶、空間そのものを創り上げる。 そして、まだ3年足らずでこんなことを言うのは更におこがましいけれど。 華道はアートだと。 花をいかに美しく活かすか、魅せるか。 茶道と華道。 今は華道をもっと深く知りたいと思う。 展示会...

女人禁制について思い出した幼い頃の話。

最近話題の“女人禁制”の話。 相撲の歴史や文化について詳しい訳でもないので、何か述べる権利が私にあるのかと言えば、まぁないでしょう、という答えに行き着く。 だから、何か意見したい訳ではなく、なんとなく考えを巡らせていたことを整理したくなった、それだけ。 私の地元には、町毎のチームで御神輿を担いで水を浴びながら街を走り、タイムを競うという夏のお祭りがある。 小学校高学年以上の男性が参加するそのお祭りは、全速力で走る御神輿に巻き込まれ怪我をする人もいるような激しいもので、その危険性からなのか伝統的に女性には参加資格がない。 子ども向けには、脚にローラーの付いた小さな御神輿を牽いて「わっしょい わっしょい」と大人の真似事のように街を練り歩くお祭りも存在していて。 そこでは男女に区別はなく、私もそのお祭りが大好きで、毎年楽しく参加していた。 幼い頃の記憶としてかなり濃く残っている。 そういえば、と今回の話題について考えるにあたり思い出したのだけれど。 私が小学校低学年くらいまでは御神輿に上れるのは男の子だけという決まりがあった。 それもいつからか、伝統を重んじるお年寄りの声の小さい地区からなくなっていき、私が高学年になった頃には女の子も御神輿の上に凛々しく立つようになっていた。 そういう時代の過渡期だったのかな、と思う。 まぁ、そんなこんなで大好きだったお祭りも、小学校の卒業に伴い、自分が女性だから、という理由で参加資格を失うことになる。 子どもながらに感じた少しの不公平感について、女人禁制に何の意味があるのかと父親に疑問をぶつけた。 その時父親が聞かせてくれた話を今でも覚えている。 例えば、女性の神様がいると信じられている山なんかには、女人禁制とされている場所もある。 女神様が女性が近付くことを嫌がるのだと。 そんな山の鉱山やトンネル工事で命を懸けて働いている男性たちにとって、女人禁制という古くからの言い伝えを信じ験を担ぐことは、外野から想像もできないほど重要な意味を持つことなのかもしれない。 そこに、頂上からの綺麗な景色がみたいから、という理由で男女平等を謳って女性が入っていくとすると、それをどう思うか、と。 そんな話を聞かされた記憶。 それが父親の例え話だったのか、実...

心が疲れた私を励ます話。

なんだか、疲れたのです。 仕事のプレッシャーもあり。 ずっと続いている気持ちの面の無理もあり。 朝から布団の中でひたすら映画を観るなどしている。 それもそれで疲れがとれる訳でもなく。 だらだらと日曜日が終わりへ近づいていく。 気を取り直して。 何をしようかと。 何をすれば元気になれるのかと。 少し前向きに考え始めた。 意味もなくおしゃれをして、一番ヒールの高い靴を履いて出かけてみようか。 学生の頃好きだった大戸屋のチキンかあさん煮でも久しぶりに食べてみようか。 そうやって、背伸びしてしゃがみ込んで、自分の身体や心の大きさを確認してみようか。 文章にして自分を励ます言葉を紡ぐと、自然と元気が出てくるもので。 不思議だけれど、言霊とかそういうもの、どこかで信じて生きている自分がいる。

画になる小説の話。

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ふと目が覚めると早朝5時過ぎで。 ついさっきまでみていた、どたばたと慌ただしい夢について思い出していると。 なんだか急に、頭の中に何かのドラマの少し怖いシーンが浮かんで消えなくなった。 怖くて二度寝できそうにない。 何のドラマだったかとしばらく思考を巡らせていた。 俳優さんの顔も思い出せない。 なのに、小さな女の子の赤いランドセルだとか、そういう細かな画や画面全体の構図なんかが鮮やかに浮かぶ。 そこで、はたと気づいた。 ドラマではない。 小説だ、と。 伊坂幸太郎さんの『死神の浮力』。 これだ。 ちょうど一年程前に読んだだろうか。 こんなに明確に映像として記憶されていることに驚いた。 伊坂さんの文章は描写がくどいような印象は全くなく。 むしろすっきりしているイメージなのに。 これだけ綺麗に読者の(少なくとも私の)頭の中に場面を描ける、ものすごい力を持った文章なのだと。 初めて気づいた。 そんな明け方の不思議な体験。 

長く綴りたくなった話。

少し長めに文章を綴りたくなった。 一年と少しの間。 Twitter というツールに自分の感情、思考、生活をアウトプットし続けたけれど。 久しぶりに140字を超える文章を書こうかな、と思い立ったところ。 子供の頃から文章を書くことが好きで。 小学生の頃にはお気に入りのノートに毎日日記をつけていたし。 中学生の頃、ちょっとした小説を書いてちょっとした賞に入選したこともあった。 読書感想文を書くのも好きだったし。 高校生の頃からは、場所を少しずつ替えながら大学院を修了するまでブログを書き続けた。 就職活動中、 エントリーシート で自分を表現することも全く苦にならなかったし。 俳句や短歌で賞金稼ぎみたいなことをしていた時期もあり。 文章の長さ、ジャンルを問わず、私はとにかく綴ることが好きな人間なのだ、と自覚している。 そんな私が最近楽しんでいた Twitter 。 自分の感情や思考を140字の中にぎゅっと要約して綴るツールとして使っていた。 ブログとは違う頭の働かせ方をしていた感覚がある。 「こういう構文だと冗長になってしまうから、こう組み立て直そう」 「余計な描写はなくして簡潔に書こう」 そういう考え方への慣れは、結果的に仕事にも良い影響を及ぼしてくれた気がしていて。 文書をA4 1ページにまとめたい時なんかに、文章の無駄を削る、端的に表現するといったことが少し上手くなったように思う。 そうやって楽しんでいた Twitter を少しだけ離れてみようかな、と思っている今。 だらだらと長い文章を書く時間が懐かしくなったということもあるけれど。 なんだか怖くなった、という表現がたぶん正しい。 日常生活で何かを考える時、ついツイートすることを意識して、文章を組み立てながら思考を巡らせている自分に気づき。 そんな自分が怖くなった。 特に人からの反応を意識してツイートしているつもりはなかったのだけれど。 なんだかんだ、たくさんのいいねをもらえると嬉しいもので。 少なからず、それを期待して文章を綴っている自分に気づいた。 そういうこと。 他にも理由は色々あるのだけれど、別にここで全てを語る必要はない訳で。 とにかく、 Twitter はちょっとお休み。 しばら...