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良い腕時計の話。

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 三十歳になった。 三十代という新たなステージを迎えるにあたり、何か自分にとって記念になるものを買おうと思った。 そう考えたときに、私の中に自然と浮かんだ答えは「ずっと大切に使いたくなるような腕時計が欲しい」というものだった。 スマホでいつでも時刻を確認できてしまう時代。 どうして腕時計なのか、と疑問に思われるかもしれない。 私に「いつか素敵な腕時計を身に着ける大人になりたい」と思わせてくれたのは、学生時代のとあるエピソードの影響が大きいのではないかと思っている。 それは大学院生の頃のこと。 当時の彼氏(現在の夫)と、何かの暇潰しに銀座のデパートを散策していた。 高級時計の売り場に迷い込んだ私たちは、大学で機械工学を専攻していることもあり、精巧に作られた腕時計の歯車の動きに目を奪われていた。 ショーケースの中の腕時計たちにつけられた価格は、どれも7桁。 そのお値段に気後れしていたときに店員さんと目が合い、「絶対に買えないんだから、こんな冷やかしで見ていちゃ駄目だよ」とその場を慌てて立ち去ろうとしたところ、その店員さんは「どうぞ見て行ってください」と優しく声をかけてくださった。 そればかりか「この時計はこういうところがすごいんです」などと、明らかに買う可能性のない学生の私たちに丁寧に説明をしてくださった。 そのときに、店員さんが特に気に入っている時計だと話してくださったのが、モーリス・ラクロアのマスターピースという時計だった。 正方形の歯車と三つ葉のクローバーのような形の歯車が文字盤の上で規則正しく動いているその時計は、私たちにとって大きな衝撃だった。 大学の授業で、歯車の機構がどれだけ精密な計算により設計されているのかを学んだ経験があるからこそ、その奇妙な形の歯車が途方もなく魅力的に感じられた。 すごい!と興奮しながらその時計を見ていた私たちに、店員さんは「またいつでも見に来てくださいね」と優しく言葉をかけてくださった。 そして、私たちはそのお言葉に甘えて、学生の間、銀座を訪れる度にモーリス・ラクロアの時計を眺めに行ったのだった。 そんな経験を経た私にとって、節目の年に何か記念になるものを、と考えたときに腕時計を望んだのは至極自然なことだった。 「三十歳になる記念だし、ちょっと良い腕時計を買おうかな」と夫に伝えたとき、同じ経験を共有している彼も迷いなく「それは素敵だ

私たちの結婚式の話。

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件のウイルスのおかげで今週末から行くはずだった新婚旅行もなくなり、なんだか浮かない気分の今日この頃なので、この半年で最も楽しかった一日について振り返ってみる。 備忘録も兼ねた完全なる自己満足記事。 昨年10月6日の仏滅に執り行った、結婚式と披露宴。 まずは、この日取り。 「これまでの人生で、今日は大安だ!と嬉しくなったり、仏滅だ…と落ち込んだりした日が一日でも存在する?」という私の素朴な疑問により、ゲストにとって過ごしやすい季節に開くことを最優先とした。 こういうことに拘りそうな私の母があっさりと、良いんじゃない?と言ってくれたことには少し驚いた。 二人で考えた言葉で大好きな列席者の皆さまへ誓う、ということを素敵だと思い、式は人前式を選択。 ちなみに、結婚誓約書には夫と一緒にシカゴ美術館で観たモネの睡蓮を使わせていただきました。 そして、ドレス。 和装と迷う気持ちもあったけれど、学生時代の茶道の経験から和装は少し身近に感じられるので、逆に本当に特別感を得られるようドレスにすることに。 ウエディングドレスはCaroline Castiglianoさん。裾のシルクの美しさに一目惚れでした。 この本当に本当に素敵なドレスに失礼のないように、と人生で一番美容に気を配る数ヶ月を過ごしたのも良い思い出。 カラードレスはALESSAさんの赤。一度着た瞬間にスタイルを綺麗に見せてくれるデザインが気に入り、こちらもあまり迷わなかった記憶。  式場のホテルもチャペルも百合の花をベースに装飾されており、打ち合わせに訪れる度に百合の香りで幸せな気分になれたので、ブーケも百合をベースに作っていただいた。 大好きな工藤遥ちゃんのモーニング娘。時代のメンバーカラー、オレンジを混ぜていただくことで、カラードレスの赤にも合うように仕上げていただきました。 我が儘を言って、私の好きな花である秋桜も入れていただいた素敵なブーケがこちら。 ウェルカムボードは列席者の皆さま全員との写真をコラージュし、自分の写った写真を探してみてください、というお題。 受付前の皆さんの様子を後から写真や映像で見ると、ちゃんと楽しんでいただけていたようで安心した。 披露宴は、新郎新婦が対等に歩んでいくのだということを伝えたい気持ちがあ

「東大女子が入れない東大インカレサークルに在籍する男子」について考えた話。

今日、出張先への飛行機の中でスマホを眺めていたところ、こんなツイートを見かけた。 私が東大に通っていた頃、東大女性が入れないサークルが結構あって、その時は落ち込んだりもしたけれど、今なら言える、そんなところにいる男性に、いい男いない。女性が勉強できることや学歴高いことは、なにも恥ずかしがることはないし、胸を張っていて欲しいと、今日久しぶりに大学生と話して思った — しょうのまい | 獣医師・イベント運営 (@MaiShono) September 24, 2019 確かに、10年前私が大学に入学した頃にも、4年前修士課程を修了した頃にも、そういったサークルは存在していて、きっと現在も存在し続けているのだろう。 私が学生だった頃にも、そういうサークルの存在になんとなく疎外感を感じたり、好きな人がそういったサークルで出会った女性と付き合い始めた時には「私は彼と同じサークルには入れないのに…」と悲しい気持ちになったりした記憶もあり、少なからずネガティブな印象を持っていたと思う。 むしろ、決してポジティブな印象は持っていなかったと言った方が正しいかもしれない。 ただ、そういうサークルに在籍する男子が皆、女性に「勉強ができないこと」を求めているという認識は少し違うのではないかと思う。 少なくとも私は在学中、自分より勉強のできない女性を好んで求めたり、自分より学歴が低いから他大学の女性と付き合っている、という東大男子に出会ったことがない。 東大女子禁制のサークルに在籍している男子も、特に学歴で女性を区別するようなこともなく、ただ極端に女子の少ない東大学内では競争率が高すぎるので、女性との出会いを求めて…というパターンや、学内のテニスサークルに入れず(確か、テニスの実力や盛り上げ能力の高さみたいなもので入部可否を決めるセレクションというものがあったような…?)結果的にというパターン、単純に知り合いの先輩がいるからみたいなパターンの人が多かったように思う。 そもそも「東大女子が入れないインカレサークル」というものが存在している点や、東大男子は学内テニスサークルに入るのが難しいという点、といった根の深そうな問題があることは承知の上で、このブログの論点はそこではないことをご理解いただきたいと思う。 話を戻すと。 私の経験のみを根拠にかなり

「考える」ということについて考えた話。

年末、任された仕事に全力で取り組み、考えに考え、私は少々燃え尽きてしまったようである。 顧客のニーズについて考え、上司の期待する成果について考え、先輩の一歩先回りをして行動することを考え、自分の業務の進めたい方向性について考え、そして何より、向き合う対象の物理的な特性について考え、頭と手足を全力で動かした。 その結果、得られた成果の大きさはともあれ一区切りつけられた業務もあり、ひと息吐いたところで11日間のお正月休みを経て、新たな年を迎えた。 長期休暇明けなんて、毎度なんとなく本調子は出ないものではあるけれど。 お正月呆けなんて言葉も言い訳にできなくなる一月の半ばに差し掛かっても、何となく頭の働きが鈍っているような気がする。 熟考すべき業務を目の前にしつつ、すぐに片付く短期的な業務ばかりについ手を出してしまう。 “深く考える力”が欠如してしまっているようだ。 “頭の良さ”というものは“深く考える能力”なのではないかと思うことがある。 大学、大学院に在学していた六年間、そんなことをひしひしと感じていた。 限りなく賢い人たちの集まる学内で、明らかに自分に欠如していたものは“考える力”だったように思う。 「なんとなく分からない」「なんとなく分かった気がする」をそのままにしておかない。 誰かのぼんやりした主観的な発言に「それってなんかおかしくない?」と躊躇わずに伝え、何がどうおかしく感じたのか、“ぼんやり”の中身を明確化する。 何か引っかかる物事に直面した時に、「ちょっと待って、考えるから」と立ち止まる。 大学生活はそんな“よく考える”人たちに数多く出会う環境だったと、社会に出て数年経った今、改めて思う。 そして自分自身も、そんな大学生活の中で少なからず変化した部分はあると思っている。 入学当初の私は、周囲に対して「すごいなぁ」だとか「とんでもないところへ来てしまった」だとかそんな心持ちで、自分がその中に属しているという感覚を持てずにいた。 大学院を修了するまでの六年もの間、結局のところ、そんな感覚も落ちこぼれ意識も拭い去ることはできず、自己否定感と闘い続けた大学生活ではあった。 そんな中でも、「あの時ああ言われて思わず納得した気持ちになったけれど、よくよく考えると何だか違うような気がする」などと

正しすぎる人の話。

未だに元彼を引きずっている。 別れてちょうど一年になる。 私にも新しい恋人ができたし、彼にも新しい恋人ができた。 彼も幸せそうにしているし、私も今を幸せだと感じている。 なのに、過去の記憶を掘り起こしては後悔に落ち込み。 知る必要のないことをわざわざ覗き見ては落ち込む。 自分が何をしたいのか分からず、何のために無駄でしかない気分の浮き沈みを繰り返しているのか分からず。 自分を制御するためにも、一度ちゃんと思考を整理して、理詰めで自分を落ち着かせる努力をしようと思った。 元彼は私の対極にいる人だと今も思う。 はっきり意見を言うこと。 人当たり良く、誰とでも楽しく話すこと。 広く学習意欲、向上心を持つこと。 挙げだせばきりがない程に、私の苦手なことをちゃんとやれる人だ。 自炊が苦手な私に、ちょっとしたことで料理がラクになったり、美味しくなったりすることを教えてくれたのも彼だった。 もともと私も好きだったお酒の楽しみ方を、何倍にも広げてくれたのも彼だった。 そんな彼が自分のことを好きになってくれて、私も彼を好きになって。 付き合ってみたものの。 今思えば、私が完全に子供でわがままで、彼はどこまでも大人だった。 「僕は君のことを前の彼氏よりも幸せにしなければいけない」 という彼の言葉を真に受けて、ことある毎に前の彼氏と比べてしまった。 他にももっと、今思えばもう思い出すのも嫌になる程に自分の未熟さを恥じることだらけの日々だった。 付き合っていた当時から、彼の正しさに圧倒されている部分はあった。 彼が私の選んだものなんかで喜んでくれるのか不安で、旅行のお土産ひとつ買うのに、これでもかというくらい時間がかかった。 自分の“美味しい”という感覚に自信をなくして、彼と食べると思うとお惣菜やちょっとしたおつまみさえ気軽に買えなくなった。 自分の趣味を恥じて、趣味に使う時間がなくなった。 デートに行きたい場所も気軽には言えなかった。 彼は全て正しくて、自分は全て間違っているような感覚に囚われていた気がする。 その分、感情面だけは自分が正しいと信じ切っていて、彼はどうして分かってくれないのか、彼はどうして私と同じように考えてくれないのか、と一方的な期待ばかり押し付けてし

10000日目を祝う話。

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今からちょうど8年前の今日つぶやかれた、こんなツイート。 https://twitter.com/kosukez/status/12881501293?s=19 学生時代に見かけ、今までずっと記憶に残っていた。 27歳と4ヶ月と少し経った頃、10000日の誕生日がやって来る。 生きてきた日数の桁の増える最後の日。 とても特別に思える、そんな日。 このツイートを見かけた時には、27歳なんて自分にとっては遥か先の未来だと思っていたのに。 気づけばもうすぐ生まれてから10000日が経とうとしている私。 そんな私に、姉がお祝いにピンキーリングをプレゼントしてくれた。 ラブラドライトという石。 「自由の象徴」とされることもあるらしい。 同じデザインでオーソドックスにダイヤモンドのものもあったのだけれど。 せっかくの記念だから、なんとなく印象に残るものにしたいという気持ちで、こちらを選ばせてもらった。 なんとなく自分を縛って、窮屈に生きてきたように感じる10000日だったから。 次の10000日はもっとのびのびと羽を広げて生きられれば良いな、と。 そんなことを思う。 ちなみに、三年前には姉の10000日誕生日のお祝いもした。 ブレスレットを贈った記憶。 自分が祝われるのも嬉しいけれど、自分の大切な人の特別な一日を自分が祝うことができることもまた、とても喜ばしいことだと思う。 意識しなければ何でもなく過ぎていく一日を、自分にとって、自分の大切な人にとって、記憶に残る一日にすることができる。 私はそういう感覚が好きだ。

社内のカウンセリングで号泣してしまった話。

弊社には入社○年目全員対象、というような定期的なカウンセリング面談がある。 カウンセラーさんに一時間近く、しっかり話を聴いてもらう。 今日は午前中、その面談の日で。 軽い気持ちでカウンセリング室へ向かったのだけれど。 「最近仕事どうですか」 という問いかけに対して、口を開いた瞬間に涙が溢れだして、止められなくなってしまい、カウンセラーさんとお話しながら、ひたすらに泣き続けた時間だった。 自分でも何がつらいのか分からず苦しんでいた今日この頃だったけれど。 「こういう気持ちが強くてつらくなっているのかな?」 「こう考えてみてはどうかな?」 と自分の気持ちや状況について、客観的に整理してもらって。 短い時間のコミュニケーションだから、正直、そうではないのだけれど、と思ってしまうこともありつつ。 でも、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。 大学院生の頃にも一年近くカウンセリングを受けていたけれど。 一言で言うと、カウンセリングはすごい。 本当に合うカウンセラーさんとお話ししていると、自然と会話をしているように感じるのに、それがちゃんと理論に基づいている。 『心理カウンセラーとは』(日本カウンセラー学院) https://www.therapy.jp/counselor/ 先生の個人的なアドバイスという訳ではなく、理論に基づくとこういう考え方もできる、というようなものなので、その後の生活で様々な場面でその時習得した考え方を活かせるというのもメリットではないかと思う。 心の理論について、一度基本から学んでみたいな、と思ったりもする。 私は自分の状況や感情を人に伝えることに大きく抵抗はないから、恐らくカウンセリングに向いているタイプの人間だと思う。 カウンセリングへ通い始めるにあたり、話すこと自体がストレスになるようであればカウンセリングは向いていないかもしれないと、当時お世話になっていた精神科の先生が仰っていた。 人による向き不向きはあれ、日本人にとってカウンセリングがもっと気軽に身近であれば良いのに、と思う。 そんな昼休み。 カウンセリング後、メイクも崩れ、目も腫れてしまって、昼休みまでの20分程仕事に戻れずサボってしまった。 お化粧を直して、午後はちゃんと仕事をし